カルチャー STORY_1 : 谷崎潤一郎
岡本を愛した谷崎潤一郎の文化の灯

谷崎潤一郎は眺望人間!
付近に高い建物のなかった昭和三年のことですから、谷崎邸は白壁の美しいとても目立った建造物でした。
訪れる客人の多くは南窓の下に並び、瀬戸内海に臨む風景を堪能しながらカメラに向かって微笑んでいる様子が、残った写真から伺えます。
谷崎潤一郎は眺望人間なのです。
そもそも阪神間に魅せられたのも、仮宿の苦楽園の旅館から、瀬戸内海を目前にし、淡路島や紀伊半島を遠望できる風景が気に入ったからです。しかし岡本梅ノ谷に渾身をこめて建てた家も、経済的理由で手放さざるを得なくなった谷崎は、その後転々と家を移ります。魚崎の倚松庵のあと住んだ借家も戦争で焼かれて、戦後は京都住まいすることになります。
阪神間に21年間住み、13回転居した谷崎ですが、そのうちの9戸は東灘区で選んでいます。
そんな谷崎の息遣いが随所に残っていたのですが、平成7年の阪神大震災で、ほとんどが瓦解してしまいました。中でも、谷崎の美意識の詰まった岡本梅ノ谷の家は全壊。充分な調査もなされないまま、十把ひとからげで処分されてしまったのです。

有志の熱い支援で復元した「鎖瀾閣(さらんかく)」
震災の年、平成7年の7月、地元岡本の有志の方々の熱い支援のもとで復元運動が始まりました。そのときこの岡本梅ノ谷の家を、谷崎の短編『鶴唳(かくれい)』にちなんで鎖瀾閣(さらんかく)と名づけました。
大正10年に書かれた、このメルヘンのような小説にはかわいい楼閣が出てきて、それを谷崎自身「鎖瀾閣」と名づけています。つまり彼の脳裏に浮かぶ夢の家だったのです。作品が書かれた8年後、岡本に住み、理想の家を建てたことになります。
復元運動は12年たった今、実現にむけてようやく大きな一歩を踏み出しました。建設後は文化施設、教養施設建設として岡本のために、いえ日本と世界の谷崎愛好家のために生かして行きたいと思います。谷崎が愛した岡本、文化の地・岡本、が世界ブランドになる日は近いのです。












